長尾鶏

 天然記念物調査報告 動物之部 第三輯 文部省 昭和13年1月20日

  32頁~35頁 畜養動物の天然記念物 長尾鶏


 

 長尾鶏はサザナミとも云って長い尾羽有つ天下一品ものであるが、ダーウイン以来屡々人為淘汰の著しい例として挙げられ、外国ではYokohama,phaenyx fowl等の名を以て広く知られて居る。 長尾鶏が初めて海外へ移出されたのは明治5年のことで、爾来それは愛玩用として、又標本として各国へ販出されたのであって、チェンバレンやカニンガム等の研究報告も発表されて居る。

 

 長尾鶏はその尾羽が第一年以外は抜け換わることなく年々成長する特質を有する点に於いて他の鶏種とは著しく違ったもので、一つの突然変異の所産と見るべきものであり、簑羽も亦著しく長い。それには普通褐色、白藤及び白色の三型が識別せられる。 褐色長尾鶏は羽毛が褐色を帯び、又白色長尾鶏はレグホルンに似て純白であるが、白藤長尾鶏は褐色の羽毛に白くて長い簑羽を有するものである。 長尾鶏は案外丈夫で普通十歳位まで生き永らへるもので、尾羽の長さは個体や年齢によって異なり、高知県長岡郡大篠村の山本直喜飼育の褐色は長尾鶏は三歳にしてニ・一ニ米、後免の関田楨吉飼育の白藤長尾鶏は四歳にして三・〇三米、又白色長尾鶏は五歳にして五・一五米の尾羽を有つて居る。 従来の尾羽の最長記録は白藤長尾鶏に於ける六・六七米である。尾羽として伸長するのはウハゲ、ヒキゲ、ワキゲ、コウゲ等のニ十四本であって、そのうちヒキゲが最も長く成長するさうである。 而して褐色、白藤、及び白色の三型のうちで一番貴ばれるのは白色長尾鶏であって、白藤長尾鶏之に亞ぐと云はれる。

 

 この長尾鶏がいつ頃現れたかは文献の徴すべきものもなく、豊臣時代に朝鮮から斎されたものと云はれるが、その真疑は知る術もない。 又支那には尾羽の長い鶏の古い記事はあるが、それが果してこの長尾鶏と同じであるか否かも判らない。 兎に角いつの頃か長尾鶏が土佐で特異の改良を遂げて居るが、それは藩の施制の刺戟に負ふところ大なるは云ふまでもない。 土佐の藩主山内家には毛槍と鳶烏の馬標と呼んで、東天紅鶏などの長い尾羽を以て作られた優美なものが伝はつて居る。 それは参勤交代の行列には異彩を放つたものであるが、藩内にはそれを造るために長い尾羽の賦課貢献の制度があつたのである。 嘗て明和年間に大篠村篠原の住人武市利右衛門が藩主山内忠義に献上した尾羽は洵に見事なもので、それに対して特に篠原号といふ名称が附与されたと云はれる。 この人が如何して尾羽の長い長尾鶏を作り出したかは詳かでないが、大篠村の村史に長尾鶏は今から百七十年程前に野鶏から現れた東天紅鶏と野鶏とから発生したと記されて居る。 一般には大和鶏(正告)から先づ白藤長尾鶏が現れ、それと他の鶏との交配によつて褐色及び白色長尾鶏が現れたと云ふもの、又最初に現れたのは褐色長尾鶏であると唱へるものもあるが、 褐色長尾鶏の雌が今日朝鮮方面に見られる地鶏そつくりであると云ふ見地から、多くの人は地鶏と尾羽のかなり長い東天紅鶏との交配から突然変異によつて尾羽の抜け換らない白藤か褐色の長尾鶏が現れたものと看做して居る。 而して白色長尾鶏は明治ニ十二年頃レグホルンと白藤長尾鶏との交配から出来たものと云はれる。

 

 長尾鶏の生命とするところは抜け換らない長い尾羽であつて、従つてその飼養管理には特別の注意が払われて居る。 成鶏は高さ五・七五呎、幅二・四九呎、厚さ七・一六吋位なる長方形の木箱内で飼育されるのであるが、その箱は一側の上方に金網張の窓を設け、その下方に接して小さな給餌用の抽斗を具へ、内部に留木を配し、又箱の最下部に糞受の抽斗を設備したものである。 勿論内部には尾羽に糞が懸らないやうに隔壁が設けられ、尾羽はゆつたりと垂れて箱の他半に納められるやうになつて居る。かやうに日光の当たらない窮屈な箱に閉ぢ込められて居るので、毎日運動させる必要があるが、運動させ過ぎると、尾羽が切れたり、又箱に入れてから騒ぎたてる虞がある。 それで普通ニ、三十分間運動をなさしめ、且飼料の配合調節に色々工風をこらすことになつて居る。

餌は普通摺秕と野菜で、屢々木炭を与へて糞のしまりをつけ、動物質は余り与へないことになつて居る。成鶏は案外丈夫であるが、雛は弱い。したがって育雛は至難であつて、一般に雛は、三、四月の交に飼育することになつて居る。

 

 現今高知県下で飼育される長尾鶏は約一千羽に達するが、毎年内外へ販出されるものは生鳥標本併せてニ十羽位に過ぎないさうである。

 

 この長尾鶏は我国に特有な家禽の著しいものとして大正十ニ年二月動物の保存要目第八に依つて指定せられたのである。