日本鶏之歴史
小穴 彪
昭和26年9月5日 (1951) 発行
日本鶏研究社
「日本鶏の歴史」初版発行後、8年を経て昭和26年に増補版を発行した。
小穴氏は最終頁に次のように述べられている。
日本鶏の来歴、各鶏種間の関係及び外国の鶏種との関係につき、私の信ずるところを述べた。
大正8年以降30余年間の成果としては、物足りなく感ぜられる向もあるかも知れないが、私としてはこれでせい一杯である。
私は、若い日本鶏愛好家が、今後は実験によって、要所々々を追究し、若し私の誤謬に陥つているところがあつたならば、それを訂し欲しいと思う。
最後にもう一言附け加えて置こう。我々の先人は、古い時代に現れた有能な特殊鶏をよく保存し、彼等を立派なものに仕上げたのみでなく、彼等をうまく利用して数々の素晴らしい鶏種を作り出した。
我々は、そういう鶏種の凡てを日本鶏と称しているが、日本鶏は言うまでもなく、我が国の文化財である。
我々は、勿論文化財日本鶏の純粋種の保存と、その改良に努めなければならないが、それと同時に、私は、我々の先人がやつたように、彼等を利用して、更に現代に於いて
次代へのよき贈物たるに適わしい幾つかの新鶏種作出者の現れることを待望するものである。
四.尾 曳
本種は、高知県産の小型鶏で、もと蓑曳矮鶏と呼ばれていた(地元では単にミノヒキとのみ呼んでいた)が、長尾鶏を尾長鶏と改めた際、往々蓑曳と間違えられること、広義の矮鶏には違いないが、本種は元来チャボ程足は短くないこと、今日のものは昔のもの程蓑羽だけが特に発達していないこと等から、地元愛好家の希望により、尾曳と改めたのである。
本種の体の小さいところは、同県産の小地鶏に似ているが、その尾羽と蓑羽は柔軟でよく伸長し、その伸長期間は小国の尾と同程度、或はそれ以上で、昔は蓑羽の長さ四尺に及ぶものが居つたということだ。
本種は従来小地鶏より変化したものと言われていたが、その尾羽の配列を見るに、それは明らかに小国型であつて、変り本尾の変生は完全であり、多くは本尾の第二あたりまで変化している。
特に本種は大抵長い裏尾一対を持つている。
右の如き雄鶏の尾羽や蓑羽の状態から押すと、本種は小地鶏より変化したものではなく、明らかに小国直系のものであるが、ただ小型鶏だけに、小国系統の中型鶏より直ちに変化したものか、それともその成立には小地鶏の如き小型鶏も参加しているのか卒かに断定はくだせない。
しかし、外観上、小国系統のものであることは確かであるから、本種を暫く小国直系の小型鶏、即ち小型長尾鶏としてこゝに掲げて置く。
本種の作出年代に就ては全く知られていないが、何れ幕末時代に作出されたものであろう。
昔は、本種の小型長尾鶏の本領を大いに発揮し、その尾羽と蓑羽とを長く後方へ曳いて闊歩する優美な姿をチョイチョイ見受けたものだが、近年の尾曳のうちには足が短かく、又、もと高知県下にいた丸尾矮鶏の血液を入れたものか、尾蓑が流れにならず、尾羽が内側に曲つてその裏を現わしているような頗るまずい型のものも見受けるが、これは昔の体型に還えして欲しいと思う。
本種の標準体重は雄二百五十匁、雌二百匁。
体色は東天紅と同じで、羽色は赤笹。
冠は中型の一枚冠。
耳朶は楕円形で色は白、又はクリーム白
足は長さ中位で、色はヤナギが喜ばれる。
本種は昭和十二年六月十五日、天然記念物に指定された。
土佐のオナガドリ
土陽新聞
明治四十二年二月九日
尾長鶏(一) 五十嵐櫻埒
一月初刊の土陽新聞に土佐名物の尾長鶏の写真が出て居り、続いて米国コロンビヤ大学教授バシボルド氏の講究書も載せられ、我々の如き多年尾長鶏の飼育に心酔して居るものには頗る興味を与えられのである。近来は此の種の鶏も本県ばかりでなく、他県でも飼育せらるヽと云へは 予が多年の経験と此の鶏の性質形状等を書記したれば、或いは参考になるかも知れぬと思ふので拙ない筆を呵してヤクだらぬ一文を草して見た。
長岡郡里改田村で尾長飼ひの先輩と云はれたのは菊太郎といふ老人であった。
今は故人となったが之が頗る好き者で多年飼育した結果、此の鶏の事には精通して居つたので此の鶏は何時頃から飼ひ始め、何した事で斯くまで尾が長くなったのか、何か聞いて居ることでもないかと問ふた。スルと其の答へに私が幼年の頃ろ或老人に問ふた事があるが、其老人が私しが十二三の時分物心を知る頃ろ早諸方に飼つて居つので飼ひ始めなとは知るに由がないが何にせよ古い事であろふとの答へでなかなか分らぬとの事であつた。其後ちいろいろと調べて見たが誰とて知つたものがない、別に記録のあるのではないし今更ら其由来を詳らかにする能はざるは甚だ遺憾である。
今事新らしく云ふまでもなく此鶏は我が土佐の名産である。昔は其飼育が余程盛んで其処でも此処でも之れを見たが、近来は段々と衰へて来て余りに此の鶏を見かけぬ様になつた。夫れといふのも昔は世並みが善くて生活に困らなかつたから楽しみ一方で飼ふたゆへ蕃殖するばかりで、減ずる事がなかつたが其の後ち段々世が悪く成つたのであるから営利的の飼育と変じ又た、交通の道も開らけたので自然と県外へ売り出す様になり、イヤ県外斗りでない西洋諸国へも積み出す処ろから次第次第に其数が減少して益々衰微となつたので惜しい事には最も善き種類の尽きたものもあるらしい。近来は又た一層衰へたからツイすると此の尾長鶏といふものが全く絶滅するのではないかとまでに気遣はしくなつたのである。因て之を保護的に飼育して此の血統をして永く後世へ伝へしめたいものである。心配して居た折柄恰もよし昨今稍々飼育者の数を増し漸次流行し出したので甚だ喜ばしく思はるヽ。然るに只営利一方の飼育では甚だ物足らぬ心地がせらるヽ利は固より計るべしで決して之を排斥するではない利を計る傍ら保護的に飼育すると云ふ点にも注意し此の鶏の血統を永遠に伝へ我が土佐の名産を何時までも継続せしむるといふに注意せられん事を切望するのである。
土陽新聞
明治四十二年二月十日
尾長鶏(二) 五十嵐櫻埒
古来此鶏は範囲弘く流行せず処々に散在して小部分の人のみが飼育し来たのであるが、之は如何なる理由かといふに普通の鶏は坪なり畠なり又たは囲ひの内へ放養するから面倒がなく世話が少ないけれども、此の尾長鶏は全く趣きを異にするので甚だ面倒である。心から好きでないと一時の移り気や人の進めなどで始められる趣向でない例へば、春生れの雛が晩秋に至りて羽毛全く脱落り其の尾が一尺五六寸より二尺斗りに延びて少しく地上に曳く様になつた時を待つて戸屋に入れるのである。扨て、戸屋の高さは大凡そ五六尺横巾三四尺厚さが五六寸で上方に止留り木をこしらへ終始夫れへ止らせて置くのである。此の様に厚さを狭くする訳けは鶏が自由に後方を見返へつたり自在に身動かしする事を防ぐ為めで、前後左右に身体を動かす時は尾や尾蓑(鶏類の尾を尾蓑と称ふ)が摺り切れる恐れがあるからである。斯くの如くにして食物と飲水を与へ少時も欠乏する事のない様に注意せねばならぬ。戸屋に入れた当時二三日の間は窮屈を感するのであろふ時として暴れ出し戸前などに音立てる事がある。此時には能く注意せねば可惜ら鶏を傷める事がないとも言へぬ、二三日を経過すると其窮屈に馴れて来て自づと鎮静するのである。之れは此の鶏は人の為に此の窮屈な戸屋に入れられて飼養せらるヽといふ先天的の性質を享けて居るゆへであろふと思はるヽ、若しも普通の鶏類を如比な戸屋に入れよふものなら何時まで経つても馴れて静まる時期はない、日を経るに従ひ出たい出たいと気を急せつて益す益す暴れ狂ふのである。扨て、尾長鶏をは戸屋に入れて後ちに一日に一回若くは二回斗り出して地上に放ち自由自在に遊ばしむるのがよろしい若し、数日間地上に放たざる時は身体の発育を害するのか忽ち衰弱するゆえ大に注意を要する。之れより年月を経るに従ふて其尾及び尾蓑が次第に延長するのであるから、余程気長く世話をせねばならぬ。所謂る十年一日の如しの覚悟でかからねば世話をし仕遂げる事が出来ぬのである。茲に一つ云ふ事がある。尾が長く垂るヽにつけては勢ひ下へたくする事になる。スルと其上へ糞が落ちて穢れ汚れる患ひがあるから後ろへ、支木を●(副う)ふて尾を其上を越させ其下へ箱を置いて尾端の方を其の中へ入る様にするのが常だ。
此鶏の淵源地とも云ふべきは長岡郡で同郡中でも飼育者の多いのは浜改田、里改田、稲生、大埇、篠原、後免等である。就中里改田が有名なる流行地で尾長鶏の本家地とも云ふべきである。此鶏を俗に篠原統と称するからは何だか篠原村に因縁のある事の様に思はれる。又に篠原付近の各村が其流行地でもあり彼是考へ合はして見ると篠原村が此鶏の出身地かも知れぬ。
土陽新聞
明治四十二年二月十一日
尾長鶏(三) 五十嵐櫻埒
之れより其尾蓑が延長する現況を述べて見よふ。普通の鶏類は秋季に至ると全身の羽毛が脱け換はる。所謂るトヤをして新たな羽毛が生ずるのである。古き尾蓑が脱落して新たに生へ出る時は其の本の方を白き薄皮を以つて巻いて居る。段々と延びるに従ひ、其の薄皮が次第次第に剥落し延び詰つて止つた時には全く無くなつて仕舞ふのである。此の延び詰めた尾蓑を引抜いて其の先端を見る時は固結して鼈甲の様になつて居り、之を以て海魚を釣るシヤビキを作り、又たペンや楊子を拵らへるのである。尾長鶏の尾蓑は全く趣きを異にして居る。終身之が脱け替らぬばかりか其の本をば薄皮もて春夏秋冬絶間なく五分以上二寸近く巻いて居る、之をマキと称へるのである。尾蓑が延びるに従ひ其巻が二寸近くまでなり、先きの方からこぼれ落ちて五六分となる。試に尾蓑を引抜いて見ると普通鶏の如く其先端が固結して居らず、薄皮にて巻きたる先きから血がホタホタとこぼれ落ちる。之れ即ち日夜間断なく延びて居る所以である。皆さん鴨や小鳥の毛を引いた事があるだろふ、其毛の内に筆と称する稚毛があつて、夫れを引抜けば本の方から血が浸む尾長鶏の尾蓑は丁度これである。
先日、尾長鶏の講究書を出された米国コロンビヤ大学の教授バシボルド氏の説に食物の如何に依りて其の尾蓑が延長するのであろふと云つて居られた。成るほど食物に依つて羽毛を変ずる鳥類があるらしい、雀の子に蜜を食はすと其毛色が白くなり目白鳥に高黍のす摺り餌を食はすると黒くなるとは、古くより云ひ伝ふる処ろだが尾長鶏の尾の延びるのは決して食物の関係ではないらしい。チト残酷ではあるが数日間飲食物を与へずとも、尾蓑の延長する事は少しも止まぬのである。
日を経て終に餓死すると共に停止する訳けで、此鶏の生命のある限りは其の延長をば止めない之れが実に奇々妙々である。
此の鶏には多くの種類がある。白藤と云ひ白と云ひ黒がやりと云ひモギチと云ひエセ毛と云ひ赤といふ、白藤は其毛色白黒の混交にて、白とは純白のもの黒がやりとは黒色にして少しく白色等の混合したものを云ひ、モギチとエセ毛大差なく黒黄赤等の混合色。赤とは褐色である。之をば東天紅の尾長といふ。近時白藤に一名を付して漣浪といふと聞いたが此の名称は土佐以外で付けたものであろふと思はるヽ。洋種鶏、漣浪プリモースロックといふがある。白色に黒点があつて小鳥絞りの形状して居るから漣浪といふのも宣べなりである。大方之れから持つて来て白藤に漣浪の名を付けたのだろふと思はるヽが、夫れが甚だ適切でないものである。(前号に尾蓑といふ事を書いたが、一寸間違つて居るから正誤して置く、尾蓑とは尾と尾の本にある蓑毛を一つにして尾蓑と呼び尾長鶏には第一大切な部分である。)
土陽新聞
明治四十二年二月十三日
尾長鶏(四) 五十嵐櫻埒
扨て、何ゆえに漣浪といふが適切に無くて白藤といふのが適当なるかといふに、此の鶏(白藤と名づくるものヽ)の毛色が白色の中央に黒條があるから漣浪に形どる由がない。古来之を白藤といふのは唯其の毛色が白くて白花の藤に似たといふばかりではない。頸毛蓑毛ともに優然と垂下せる有様は初夏の候、白藤花の咲き乱れたる光景に左もよく似て居るから云ひ出したもので、面白みあり且つ優美なる名称である。我が土佐の国に於ては漣浪と云つては通用せぬ。以上数種の中で最も美麗にして壮観なるは白藤である。白藤にして理想の鶏を得たならば、夫れこそ尾長鶏中の第一位を占むるのであるがソレが何うも想ひ通りの鶏が生まれぬものである。
総て此の尾長鶏の尾蓑に就て一奇がある。何となれば普通の鶏類は単に尾と云ひ蓑毛といふのみであるが、尾長鶏は其尾蓑を小別して部分部分に依り夫れ夫れを付して字の如きものがある。一々之を挙ぐれば先づ、尾房の中央に相並らびて生ずる二本を引尾と云ひ、其下方に一本或は二本あるを裏尾と云ひ、引尾の上部にある二本をウワヨレと云ひ、其左右に上下二重に数本宛相並らびたるを脇尾と云ふ。之を小別して上部のを上尾又は、ソトコと云ひ下部のを下尾又たは、ウチコといふ。此の脇尾の中央に稍々巾弘きもの二本或は三本又は、四本あり之をコウゲと云ひ、其傍らに最も巾弘く長さ大凡そ、一尺五寸以上二尺余のもの二本或は三本又は四本ある。之をコウガイと云ふ。最も短かくして其の長さ僅かに六七寸のもの左右に数本宛相並らびたるを鴉毛又は、雌尾と云ふ。又た、蓑毛を三種に別つのであるが最も下方の分を黒蓑と云ひ、其上部にあるを単に蓑と云ひ又た、其上部に在るをキシヨウ毛と云ひ又た、化粧毛といふのである。
以上の名称に就き一々其意義を糺せば、引尾とは最も延長して地に曳くからであるのは云ふまでもなき事。裏尾とは引尾の裏面にあるからでウワヨレとは根元より其尖きに至るまでグルグルグルと綺れて居るゆえに名づけ、脇尾とは尾房の両脇にあるゆえであろふ。之を小別してウチコソトコ又は、上尾下尾とは内外上下の尾と云ふ意味であろふ。鴉尾又は、雌尾とは鴉の尾の如く雌鶏の尾の如しといふ事。キシヨウ毛と云ひ化粧毛といふは化粧毛の方が適当で粧ひの毛と云ふ訳けと聞へるが、コウゲ、コウガイに至つては何うした訳けか甚だ解釈に苦しむのである。此の名称は何時の時代に何人が付たのか誠に奇にして又、頗る興味あるを覚るのである。
此の種の鶏は秋季に至れば右各種の尾蓑を除くの外、全身の羽毛が悉く脱け替はるのであるが只尾蓑ばかりは生涯依然として原形を保ち、常に延長して停止する事のないのは前述べた通りである。斯の如く一種特別なる奇々妙々の天性を有する鶏類は実に天下無双であろふと思はるヽ。
土陽新聞
明治四十二年二月十四日
尾長鶏(五) 五十嵐櫻埒
以上は大体に就いて述べたが之より小部分に入りて聊か説明せざるを得んのである。脇尾は内こ、外こと謂ひ又、上尾下尾と区分して左右四組となりて居る。尾簑の数は鶏に依り多少の差があるから一概には謂へぬけれども先づ、右四組にて一組の数が六本づヽ有るとすれば四六廿四本となる。之が皆々延長するではない。上部より順々に下方へ数へて三番目迄は延長する。又、鶏に依り四番目迄延長するものもある。三番若くは四番目より以上は大凡、一尺以上三尺以内で停止して根本へ綿毛を出すので有る。綿毛とは軟弱にして白色のものなる事は孰れも●くに御承知なさるヽ事と思はるヽ(普通鶏の根本は皆綿毛となりて停止して居る)。故に三番目迄延長するものとすれば三四十二本となる。之に曳尾、ウワヨレ、裏尾、コウ毛を加へて廿余本斗りの尾は延長する。然るに裏尾は鶏に依りて無いのもある。又、脇尾が四番目迄延ぶものもある。又、コウ毛に多少もあるから尾の数は一定したものではない。先づ二十本以内である。又、尾の巾に広狭があり、黒簑も亦多寡がある尾巾の狭き鶏は尾数は多くても壮観にない。尾巾広くして多数有る者に若くはないのである。又、黒簑が有ると尾と共に曳きて甚だ見事なものだ。
又た、尾簑ともに其質に硬軟が有る。二三寸出でたる時には何れも硬いが、五寸若くは一尺斗りに延びると軟くなるものが有る。二三尺と延びる中には自然に切断せられるから硬きものに若くはない、硬きものに至りてはテグスの如きものがある。之は切断せらるヽの憂ひがない然るに、余り硬き尾は遂に延長する事が停止すると謂ふ憂ひが有る。実に一得一失とはこの事だ。素性の悪しき鶏は偶ま停止するもので有る。故に硬軟中間の質を供へたる者が上乗である。又、簑に平簑と筒簑の二種が有る。平簑とは平面になりて居る。筒簑とは両端が反巻しけ中央が溝の形になりて居る。例へば、丸竹を半分に割りたる如きもので、其丸みの掛りたる方が表てとなり溝の如き方が裏となつて居る。此の二種の鶏を対照せは筒簑は頗る優美にして平簑に勝る事満々で有る。尾は簑の如く著しき相違はなけれども鶏により幾分か平と筒との別が有る。之まで此の鶏の尾の長さを云はなかつたから、茲で一寸云つて置かふ前にも云つた通り命のある限り延びるものであるから、年久しく尾は飼ふほど長くなるのであるが、先づ三年鶏で一丈二尺位五年六年となると夫れよりも長くなる。十年といふ鶏は未だ見た事がない。
土陽新聞
明治四十二年二月十五日
尾長鶏(六) 五十嵐櫻埒
而して、尾の中ドヤと本尾との別がある。産尾が脱落して直ちに本尾を生ずる事と、産毛より本尾まで一足飛びに進まずして中間に於て一種の尾を生ずる事がある。之れは産毛より進化したものであるけれども、其進化の度が本尾まで達し得ず産毛と本尾のとの中間のものである。中トヤとは産毛と本尾との中間で替る尾といふ意義である。故に進化力の強きものは産毛より直ちに本尾を生ずるのである。又た、過半本尾を生じ其内の数本は中トヤの尾の変るものがある。皆悉く中トヤ斗りのものは少ないが、たまたま出来ぬにも限らぬ悉く本尾が生へ揃ひたる時には飼育者に於ては一と先づ安堵するのである。何となれば中トヤは二尺も三尺も延長した後でも抜け替への恐れがある。夫れであるから飼育者中には中トヤの尾は悉く引き抜き捨てヽ早く本尾を生ぜしむるといふ仕方を取るものもある。たまには、此中トヤの尾が何処までも延長して停止する事を知らんのもある。又た、鶏に依り数十本の尾の中にて一二本の尾が数尺延びた後ちに止らんとして巾弘くなり終に綿毛を生じても止らずして延長するものがある。是等は此鶏の奇中の奇と云はざるを得んのである。而して、本尾と中トヤと異なる点は一見して分かる。本尾の先端は鋭利なれども中トヤの先端は巾弘くしてまるみを帯て居る。
右に述べたる数種類中、其一種類の中にも亦多少の差異がある。先づ白藤種に就きて謂はん毛色大に冴へて雪の如きものと又、少しく黄みを帯びたる者がある。腹部の毛は純黒の者と又、白色の小点有るものが有る。又背の上に赤色の毛を生じて頸毛と簑毛を切断せるものが有る。之を白藤の胴切りと謂ふ。其他の数種に於ても亦、多少のの差異が有るが略して一々挙げぬので有る。又鶏に依り、其尾を右方又左方に傾斜するものが有る。之は一の欠点と謂ねばならぬ。然れども、尾簑が延長して地に曳く時に至りて、初て此傾斜が顕はれぬ様になる。何となれば尾簑を長く地に曳きたる時には、其重量が自然と其傾斜を支へるからで有る。
頭兜即ち、鶏冠に三つ切れ四つ切れ五つ六つと種々の切れ込みあるが第一等が三つ切れで、四つ切れ之れに次ぎ余り繁く切れて居るのは面白くない。又た頭兜の後方が後頭部に垂下せるは見苦るしきもので、後方が揚りて後頭と相離れたのが上乗である。体格は成るべく大きくして、丈け長く趾は高き方が立派である。体格の小なるものは尾簑が延長するに従がひ、甚だ小さく見へるものである。鶏の大小に依り大に見栄へが違ふ、体格の大なるほど壮観である。数種類の中でも興味の少ないは白、全身純白であるから少しも抑揚がない。又た、尾簑ともに巾狭く且つ、尾性の悪しきもので他の種の如く延長せぬのである。又た、其足は黄色で他の種類は皆ゴミ足である。此のゴミ足が尾長鶏の特色で其道の人に喜ばるヽのである。