飼籠鳥

 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー  古典籍資料



 飼籠鳥 二十巻 佐藤成裕 文化五年著 第四巻鶏部において十六種の鶏について述べている。

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 飼籠鳥は江戸時代3大養禽書の一つで、筆者は水戸藩士佐藤成裕(号は中陵・温故斎、1762-1848)、会津の人厳恪の序は文政4年(1821)なので、その頃に完成か。

 巻1は序などと「異鳥部」(天狗など、想像上の鳥)、巻2・3は「飼法部」で、飼い方・治療法・21種の猟法を記す。

巻4以下が各論で、416品(うち102品は外来種)を鶏部・雉部・鳩部・鸚鵡部‥‥鷹部・隼周鳥部と、形状に基いて17部に分けて叙述し、『本草綱目』の分類とは異なる。

当時の野鳥の分布など、参考になる記載が少なくない。

 本資料は滝沢馬琴(名は解[とく]、別号は著作堂、1767-1848)の旧蔵書で、巻20末尾に天保5年(1834)の馬琴自筆識語がある。

欄外の馬琴書き込みで、幼少時から鳥好きだったこともわかる。

馬琴はまた、自己の著作『禽鏡』(東洋文庫蔵:当館の『禽鏡』本はその巻1の写本)のなかで、本書の記述を数多く引用している。:『稀本あれこれ』参照(磯野直秀)



飼籠鳥

94/114 頁   鶏部目録 第四巻 

95/114 頁   黄鶏、朱鶏、白鶏

96/114 頁   烏鶏

97/114 頁     〃

98/114 頁   太和鶏

99/114 頁   黒鶏

100/114 頁 長尾鶏

101/114 頁 長鳴鶏

102/114 頁 馬鶏

103/114 頁  〃

104/114 頁  〃

105/114 頁  〃

106/114 頁 矮鶏

107/114 頁 反毛鶏

108/114 頁 烏骨鶏 

飼籠鳥序

炎帝氏治天下 恤斯民之夭折 創制薬物所謂本草之学 是也 而後世薬物外 区別経史典籍所載品物 称之名物者流 子日 多識鳥獣草木之名 其学盖蒿矢於比 夫名物豈有也 特本草一端耳 今以名物為一家者 以多識自衒 其気味功能 則舎而不論 果何益哉 諬諸古昔 周官設疾毉瘍毉之官 本邦大同延喜之盛 建毉師採薬師之職 各供其事

供其事者 必親採親験 能審五薬之性 節炮 之制 而後施諸治術 則必得十全之效矣 後世毉家 既忘其本 薬物制造 概附之薬肆 不復辨真贋好醜 以價之貴賎定品之高下 漫然施諸治術 其遺害不浅 謂之仁術而可乎 近世如稲氏松 氏 比比輩出 比学復盛乎 水府藤先生  夙志千比 弱冠周流天下 北遊奥羽 

 

文政辛己仲冬十八日 会津巌 恪謹識  

飼籠鳥序

予が幼より本草を研究する事独り 草木のみならず 金石鳥獣虫魚に至るまで一として弁明にせさることなし 然りと雖も人の性各其の好む所に随て長たる所あり 其の鳥獣に至ては素より好みて心を用ふる事一朝一夕にあらず 且又四方の邦に周流して深山大沢として到らさる所なし 或は目の觸る所耳に聞く所盡く録して遂に一書となる 其の委しきに至っては悉く後編に記す 希くは後の是を好む者漏れたる所を補ひ誤る所を正して 博物の一助備へば予が幸 是に過る事なし 只其の君子を待矣

    文化五年戊辰之夏   藤成裕撰

 

總目 第四巻 鶏部十六種

飼籠鳥鶏部目録第四巻

藤成裕曰く 鶏は陽にして先つ羽を振て九声を鳴く 雉は陰にして二声を鳴て後に 羽を振ふ時移り刻成るは 天の常なり 是が故に鶏は陽に属して先つ是をしる 気■地震ふは地の変なり 是故に雉は陰に属して先つ是をしる 是乃ち陰陽家の師とする所にして 鶏の時刻をしり 雉の地震をしるののみならず 万物皆此の理なり

家鶏 黄鶏 朱鶏 白鶏 烏鶏 太和鶏 山鶏 黒鶏 長尾鶏 長鳴鶏 西洋鶏 馬鶏 矮鶏 反毛鶏 烏骨鶏

飼籠鳥鶏部目録終

飼籠鳥巻之四

鶏部十六種

和名 ユウツゲトリ 古今集 ヤコエノトリ クタカケ

   トコヨノナカナキトリ

古歌に加介と称す 加介は家鶏と云ふ事なり 伊勢物語に家鶏をクダカケと訓ず 俗に庭鳥と云ふ

 黄鶏 是れ朱鶏の雌なり 医家の薬食するに使ふは多くは黄鶏とあり

 朱鶏 一名丹雄鶏   

大小あり 惣身赤し 俗に醒々と云う 冠も尤も真紅なり 載丹と名付けて薬に用ふ 此雌乃ち黄鶏なり

 白鶏

大小あり尤も潔白なるものあり 豆腐の湯にて時々浴すれは 雪の如く明白になるなり

 烏鶏 

大小あり 俗に真黒と云ふ 食用にも薬にも悪し

一種 頭上黒くして髪を結ひたるが如きを奴子と云ふ

一種 縨赤くして胸黒きを油鳥と云ふ

一種 黒白相雑を碁子と云ふ

一種 袍白く胸黒く背は雑色ありて尾は黒し 老して脛に細毛を生す 距にも又生す 尤も大にして足高く 尾大にして三通りに出て垂れあり 此種を袍白と云ふ

野州の辺 尤も美鶏多し日光の山内別して形色美しく種々の

しく種々の名鳥具足せし鶏あり 得て愛玩すべく 其名号一々後篇に詳に出せり 凢此の種にして脚高く尤も大なりと雖も闘にならざるを家鶏と云ふ 花鑑に草鶏と云ふ 乃ち此方の地鳥なり 只食用になるなり

 一種 筑後の辺りに生す 其の形色は常の鶏にして頭上に黄毛ありて其の形菊の如し 俗に是を菊頭と云ふ 烏骨鶏に相合する時は此の菊頭を変生すと云ふ

 一種 番鶏と名つけて毎年阿蘭陀人食用の為に持ち来る 予先年長崎に在って親しく是を見るに乃ち 和の地鳥にして大小形色種々ありて又和品と頗る異る処あり珍し 阿人西洋の諸国を経て相求めたる故 各々其の国々の鶏にて 尤も珍玩すべき物なり 長陽の人は常の事にて更に意を留めずして顧みるものなし 日々食し終りに又日本の鶏を求め帰へる

 一種 円羽と云ふあり 暹羅(シャム)にも常の地鳥にもあり 羽の先尖らずして円し   

黄雙なるはニ頭の雛を産す 先年薩州の鹿児島にてもニ頭を産す 餌を与える時雙の首にて相共に争って食す 其の他雙頭の物希に出る事あれとも長じ難し 往々に其の雙頭の説あり 往年浅草の観音の堂の前に一の白鶏あり 首の容全く烏骨鶏にして眼色尤も似たり 其の尾より脚の形相似て距右は七指あり 左は六指あり 乃ち鶏の距と烏骨鶏の距と一聚に生し甚だ悪むべき容なり

四足 一尾鳴則倶鳴 」 此の説を見る時は亦た成長しかたしとも云ひかたし

四足 四翼鶏 」 此の説を以て見れは実に変物なり

 太和鶏 和名 ハンチャボ

先年薩州に在りて琉球人某に諸島の鶏類を尋ねるに 皆日本の地鶏にて闘鶏に用ふべき鶏なり 其の中一種甚だしく小なるあり 是れも日本の南京チャボにあらず 乃ち日本に所謂ハンチャボなり 太和と云うは日本と云ふ事にて 乃ち日本鶏なり 或は亦唐土の鶏類も来りてある 故に是等を別つ為に太和鶏と云ふのみ

 黒鶏 長崎の吉雄耕牛翁云はく 阿蘭陀の人日用の食とす

其の国に至れは其の産する鶏鴨を求む 其の味は皆相同じ往々 

載せ来る黒鶏尤も大なるあり 其の肉硬くして味甚だ悪しく 是れ一嶋に至つて此の鶏を得る 皆純黒にして光沢なし 其の嶋の人は皆黒色なり 案ずるに通雅に所謂う所黒人国にして 古へに所謂崑崙奴なり 其の黒色を為す事天地の然らしむ所なり 職方外紀曰く利未亜の東北江海処其国甚だ人多く皆黒色 産す所の鶏また皆黒 」 と云う果して此より得て来る鶏なるべし

 長尾鶏 和名 トウマル

元来朝鮮より来る色白をよしとす 純黒は稀なり 其の形常の地鳥に似て其の高さニ三尺に及ぶ 其の冠五寸位に下にも亦垂る 共に七寸余なる物あり 日々人の津液を手にて塗り附けは其の色益す赤く 又大にして倒ることあらは鉄の箆を焼きて 左に倒るれは右に焼き付け 右に倒るれは左に焼きてよし 其の瘕癒るに随ひて皮釣りて真直に立つなり 癒えて少しく倒る事あらは幾く遍も焼いて真直ぐに立すべし 其の尾は数色なれとも長く数多くあるを貴ぶ 是れも時々豆腐の湯にて浴し 指にて其の羽をこぎて洗ひ 又折れ或いは短く癖あるはぬき去りて新たに生ずる様に手入れすべし 飼法は米麦黍荏にて宜し時々葱菜の青物を与ふ 此の鶏争い闘 

に用るになり 次只玩弄に畜ふ物なり 兎角尾羽の潤沢なるを貴びて玩覧する物故に 食物を吟味して飼う

一種先年唐舶より来る 惣身潔白容は鶴のことし 冠尤も大にして赤き事猩々緋のことし 本朝食鑑に云く 唐麿是れ華より来るの謂か 麻呂は古へ男子の通称なり 其の中冠の大鋸歯の如き物を大鋸と称す 近時は純白にして脛に細毛なきを貴ぶと云う

 長鳴鶏

唐麻呂と地鳥の間にて其の声大にして好みて鳴く 是も大にして唐麻呂是に近きあり 能く鳴くと雖も毎刻に鳴く事なし.

 西洋鶏

和名 ヲランダケイ(大和本草) シママル(長崎土名)

先年阿蘭陀人食用の余り 只一雙を載来る 長尾鶏に似て尤も小 毛色尤も見事なり 頭の辺り真黒にして 只冠赤く甚だ珍しき容貌なり 惜いか忽に殺して釜中に投ず 此の類の事甚だしく多し

    

 馬鶏 和名 シヤム

元来暹羅国より来る故に名付てシヤムと云う暹羅鶏なり 俗に誤ってシャモと云う 昔し阿蘭陀人食物の為に其の国より求め来る 今は諸国共に畜つて闘しむ 其の高さニ三尺 全身赤色にして多くは裸なり 其の冠も赤く塊にて見るに堪へず 案ずるに唐土にても此のシャムを用ゆ 宋元の比より以前は常鶏の大なる物なるへし 左伝郡公 闘鶏の事を見れは其の来ること久し 太平御覧には寒食の日に戯れを為す 日本にては朱雀院の御宇 天慶元年三年四日に闘鶏を始めて行う事なり 此れ以前此の戯れあることなし 天慶元年を以て我が朝に於いて闘鶏の本源とす 近時諸州になりと雖も皆市人遊手の戯れたるのみ 常鶏を用て闘しむるにあらず 和漢共に暹羅鶏を用としるべし 近時京都の市家に養う者種々の毛色ありて一度戦場に出して勝ときは種々の名を命して美賞す 所謂力士の名のことし 其の名高きは価もまして高価なり 後世は此の鶏のみ闘場に出す事をしる 古への人は後世此の鶏 

ある事しらず 嗚呼是より後は皆此等の事多かるべし 此の鶏老へたるは脚を湯に浸し脛を去つて若鶏に偽す 其の爪を茶碗の破片にて磨き闘はしむ 薩州にては鉄にて此の如し物を左右の撃爪にはめ糸にて結び付けて相闘はしむ 東西一争して羽毛共に一発して黒血地に洗く眼前の勝負戦場に相乱るるが如し 未だ他州に此の撃爪の爪釼を用ふる事を聞かず 案するに此の釼を用ふる事唐土より伝りし事なり

 

此の説より出たる事なり 

凢闘鶏負くる時は其の場にて鶏の冠を削去りて再び闘場に出さぬ様にす 飼法は常に小麥を与ふべし米粒は身重くなりて小麥にしかず 時々米飯に味噌汁と生の葱を細かに刻き是をかき雑ぜるて与ふべし 格別に力付くなり 或は亦荏胡麻 牛蒡子 胡桃の肉を米飯に磨合せて与ふれば甚だ肥ゆる也 然れども常に与ふるに及ばず 闘場に出でんとする前に用ひて甚だ験あり 又 虫餌に鰻及び牛節を下餌として十日許り飼ひて五七日前には飯に雪花菜並びに牡蠣を雑ぜ与へて庭中にて終日鞭つて其の力を附す 其の体を労せしむれば一身の脂を去りて身軽く 其の力常に十倍す又牛節返鼻蛇の細

末を与ふる時は凢て闘つて敵するに足るなり 是れ闘鶏第一の秘伝なり 又雛を取るには少しづつ此の餌にて雌を養ひて別に置き常に雄を見る事なかれ 春暖の時節宜しき時を見合ひて此の餌にて養ひたる雄を相合せて卵を取るべし 相合する時に雌に牡蠣を与ふる時は其の卵実して皮硬し 先づ其の卵を秤して目方の重きは雄なり 大さ相同して目方の軽きは果して雌なり 此の法試みて皆知るべし 鷇より五七十日の内に時々蚯蚓を与ふれば病出づる事なし 折米にて飼ふ又荏子 胡桃の餌を与へて広い所に追ひ放ちて飼ふ時は其の力最も強くなるなり 三都に畜ふは此の法なき故に闘場の勝負忽に相決して何の興なし 主人も其の故を知らざる故只自負のみにて 元来其の仕方を為ず 是故に都下の鶏を闘はしむるは小児の角力の如し 凢都下の風これのみならず軽忽淺見にて日用を送る故なり 然れども闘鶏が如きは予が強ゆるに非す 聊か此法を茲に載せて世の闘鶏家の膏盲を進むるのみ 案ずるに古へより闘鶏の戯あれども常の鶏を用ふるなり暹羅を用ふるなり 暹羅を用ふるは近世の事なれども闘鶏家皆此の由を知らずして 暹羅を以て古へを説く事笑ふべし 近世闘鶏の戯あれども常の鶏を以て闘鶏とする事を知らず 然れば闘鶏の戯 世に絶えたるが如し 又案ずるに闘鶏も小なるにあらず  

五雑俎日 番鶏高五尺許 白色黒文状如 闘鶏但不聞其鳴耳

是れ乃ちシャムなり状如闘鶏と云ふは常の鶏の大なるを云ふ 是れ乃ち日本の古への闘鶏と同じ 不聞其鳴 といふは晨昏に極て時を作って人の用に立事なく 其の鳴く声なきにあらず 唯鶏の如き声を出すのみなり 先年阿蘭陀人の画ける番鶏の図を見るに日本に生孕したる物と容貌すべて同じからず 其の色青緑もあり 是れ乃ち陜西に所謂馬鶏と名付けて乃ちシヤムなり 

陜西通志日 馬鶏嘴脚紅 羽毛青緑 」

楊州府志日 鶏高 博支有三鶏高四五尺与人闘土以守戸 」

彼の地方皆大なり

爾雅日 鶏三尺為鶤 」

花鏡日 戦強日 闘鶏 」 此のニ説は乃ち常の鶏の尤も大なる物なり 然るに先輩皆鶤を以てトウマルと訓し或は又シヤムに当つ皆非なり

本草綱目日 時珍日 蜀中一種鶤鶏 」 是れ常の鶏の大なる物なり 

蓋し蜀は天下無類の山国なれば山気の為に其の雛も尤も大なるを生じ 其の大なるより又大なるを生出す故に 愈々大なる物を自然と産するなり 日本にても 

 

日光山の辺の鶏は甚だ大にして毛色も美彩あり

 

典籍便覧曰 鵾鳥 其形如鶏五色 至冬無毛赤裸 昼夜常鳴 好低昻 」 是れ暹羅にして番禽の風あり 果して其の説を聞くに南海赤道以下の国に産れて頭より胸肋の辺に至るまで羽毛なし 是れ乃ち炎熱の地 自然と其の気を受けて其の種に生孕する事天竺地方の人常に裸体なるが如し 此の種を本邦に移して生孕する時は羽毛にして赤体の処少し 其の闘はしめてその力減ずる事知るべし

 

 矮鶏 和名 チャボ  地スリ

元来海舶載来る食鶏の一種にして尤も小なるを南京と云う 其の容貌食鶏に相同して 其の頭甚だしく大に色美に 其の尾覆って頭に至る 脚至って低く速やかに歩行し難し 其の色純白を上とす 純黒も是に次ぐ 黒白相雑るを碁子と云う 是も亦た貴し 雑紅を下とす 極紅なるを猩々と云う 光沢ありて見事なり 其の容貌は種々なれとも 先ずは脚低く其の冠尤も大なるをよしとす 古今 秘苑にも 罌粟を与えて矮鶏と為す 仕法あれとも只道理のみにて定に変して 小なる物になる事なし 或いは雛を小籠に入れて水を少しづつ

与えて小なる様に作りたるもあれども盡くいぢけてすくみて 病鳥と見えて却つてあしく 兎に角雛より食物を多く与えて広き籠にて緩々と養い立てて小なるにあらざれば竒音なくして賤しみあり 近時は又半返にて一体は大なれどもゆっくりとして尾羽もしけりて其の冠至って大なるを大冠(オオサカ)とて貴ぶ 大鋸冠(ダイキリサカ)とも云ふ 東都にては時に会集して各々美賞す 其の冠時々葱を与えれば色益々紅くなる 人の津液(ツハ)を日々に塗り付くる時は自然と紅み倍してよし 凢鶏の兄弟と相合する時は耳白となる 耳白は甚だ忌むなり

本草綱目曰く 地珍曰く 江南に一種矮鶏 脚 ニ寸許也  」 此の説乃ち地スリなり 埤雅曰く 越鶏は小 」 是も乃ちチャボなり

 反毛鶏 和名 サカゲニワトリ

世間往々是れあり多くは赤鶏にて其の雌は淡柏(カシワ)なり 又希に矮鶏にも是れあり 其の種を多く畜って雛を出す時は尤も珍しきを出す事あり 然れども人飼うことの少なし

本草綱目曰く 地珍曰く反毛鶏即翻翅鶏也 毛翮皆反生向前治反胃 」 と是れなり

 烏骨鶏 和名 ヲコツケ 烏骨鶏の訛り言うなり

元来海舶より来る 純白純黒のニ種あり 其の毛羽箕の如し 其の冠暹羅の如く 其の色黒く 嘴及び脚足も黒し 是の故に医家の方書に烏骨鶏とて薬に入る 烏骨とは嘴脚の黒を云ふなり 世の庸の黒き鶏の中に於て 骨黒きものを擇みて 未だ烏骨のものなし 又俗に烏骨鶏は毒ありと云う 是れ誤なり

 

本草綱目日時珍曰く 烏骨鶏に白毛烏骨の者 黒毛烏骨の者 斑毛烏骨の者有り 骨肉倶に鳥の者 肉白骨烏の者有り 但し観鶏の者則肉骨倶に烏(からす) 入薬は更に良し 」  

此の説に於て見るべし毒なし

東坡物類相感志曰く 烏骨鶏舌黒き者則骨黒い 黒ならず者但し肉黒い 」  

或は云はく 黒色の鶏は総て美味あらず 其の卵も白羽の物に次くなり